第五巻について
山岸巳代蔵全集第五巻には、一九六〇年七月から一九六一年三月まで、九回にわたって行われた「ヤマギシズム理念徹底研鑽会(「理念研」)の記録のうちの前半部分、第一回(七月)から第四回(九月)までの記録を収録した。本全集は、第四巻までは時系列に従って、すでに発表されたことのある山岸巳代蔵の著述や記録を中心に、整理・収録してきたが、ここからは、未発表資料を主に収録していくことになる。この第五巻に収録した記録は、第三巻収録の『金の要らない楽しい村』、『ヤマギシズム生活実顕地―山田村の実況』(一九六〇年五月頃)の後から、第四巻収録の『ヤマギシズム生活実顕地について』(和歌山県六川での記録・同年一〇月)の前までの時期にあたる。
「理念研」の記録は、研鑽会の記録である。その中に山岸巳代蔵の発言もあり、様々なやりとりのなかで「ヤマギシズム」なり、山岸の思想が語られていくというふうになっている。実際の対話の中で語られているがゆえに、各出席者の生々しい息づかいが感じられる。
一般的に、あるグループの人々の中で行われる対話は、共通の前提知識を持たない人にとっては、分かりにくい面がある。そうした場合、その発言の語られた時代、社会風潮、そのグループの持つ共通認識等をある程度知っておくことが理解の助けになる場合がある。逆に、それが先入観になって、誤解へと導くこともあり得る。どの程度注釈を施しておくかは難しい問題であるが、ここでは、一般的な社会事情と当時の山岸会の運動、主な出席者について、理解の助けとなると思われる範囲の説明を加えておきたい。
この「理念研」が始められた、一九六〇年の七月は、山岸会事件から約一年が経過した時期にあたり、ともすればそれまでは養鶏≠ニいうキーワードで語られることの多かった山岸会活動が、思想的に、或いは社会活動の一つとして認知されていく過程の中にあった。
日本の社会状況は、流動的で、活況を呈していた。日米安全保障条約の改訂反対の声に日本中が大きく揺れる一方で、経済は戦後の窮状を脱して、高度成長への階を登りつつあった。世界では、冷戦構造の中、ソ連がアメリカとの人工衛星打ち上げ競争で一歩リードし、中国の人民公社による生産手段の共有化や経済の「大躍進路線」が大きな話題を呼び、キューバにも共産党政権が樹立されるなど、共産主義が大きな波を起していた。
北朝鮮でも、農業協同化の推進、完全配給制等が進められて、識者・学生の中には、そこに新しい進歩的な考え方を見る人もいたし、一部のマスコミは、北朝鮮を「地上の楽園」ともてはやしたりもした。宗教界では、創価学会が、青年部を中心に「折伏大行進」と呼ばれる大々的な勧誘キャンペーンを行っていた。つまり、この時期は、様々な動きの中で揺れ動く日本社会の方向性が、ある意味で決定づけられるような時期であったとも言えるだろう。
しかし、山岸は、こうした社会の動きや世論の動向に対して、危機感を抱いていたようだ。「理念研」の中でも、社会の動きが話題に上ったり、「宗教と研鑽の異い」等がテーマとなったりしている。
順調に会員を拡大しているように見えた山岸会の活動は、山岸会事件を境に、一つの転機を迎えていた。特別講習研鑽会は一九五九年七月から中断され、「ヤマギシズム生活実践場春日実験地」は、事件とその後の伊勢湾台風による壊滅的な打撃の影響もあって、窮乏生活の下にあった。参画者の中には、資金難から縁故者の所に一時的に身を寄せたり、資金を稼ぐために土方に出たり、女中奉公をしたり、行商に回ったり、工員となったりする者もいた。事件後の動揺の中で運動から離れる者もいた。しかし、現象的には窮状と見える中にありながら、本来の目的とする一体生活の顕現へと向かって歩き始めていたのもまた事実である。東京へ出て、一体生活をしながら学者や政治家に山岸会の活動を知らせようとする女性達もおり、それらが結実して、一九六〇年八月に東京で、事件以降初めてのヤマギシズム特別講習研鑽会(特講)が企画され、実施されることになった。これは、ヤマギシズム≠ニいう一つの思想を前面に押し出した内容のものを、学者や政治家なども含めた知識人層に呼びかけて行われたものであった。
全国各地の山岸会員の間では、一体経営を目指す試みが始まっていた。和歌山県有田郡下六川、長崎県西彼杵郡の「青い鳥農場」、京都府伏見区の久我、山口県大島郡その他、各地でその動きが起っていたが、中には、一体≠ニ共同≠フ本質的な異いが分からないままに、より世間的に受け入れられやすい共同≠ゥら一体≠ヨと漸進しようという考えを持ち、その方向へと進んでいくところもあった。
山岸会活動に影響力を持つメンバーの中にも、ヤマギシズム≠ノ対する理解が十分でなかったり、一体になりきれないという状況が存在した。広く社会に向けて一つのイズム≠打ち出していこうという時に、内部の不一致は運動の足元を掬いかねない要素だった。
こうした状況の中で、運動の中核となるメンバーの中でのヤマギシズムへの理解や、一体化を図るために、山岸は「理念研」という機会を設けたというような観方も可能であろう。
山岸巳代蔵自身は、一九六〇年四月に自ら警察に出頭して、その後、三重県津市阿漕の「三眺荘」という借家に居を定め、福里柔和子との新たな生活を始めていた。この「三眺荘」は、翌年五月に岡山で逝去するまで山岸の生活の拠点となった場所で、本巻で採り上げる「理念研」の舞台となった。
この「ヤマギシズム理念徹底研鑽会」に山岸が当初参加を呼びかけたのは、明田恵二、戎井章雄、奥村久雄、奥村通哉、坂本哲夫、杉本利治、西辻誠二、安井登一、山本作治郎、山本英清の十人で、そこに山岸自身と柔和子が加わっていた。全員が毎回出席していたわけではなく、また、他のヤマギシズム生活実践場のメンバーや山岸会員が加わるケースもあったが、一応、レギュラーメンバーとしてはこうした人々が想定されていたようである。これらの人々については、巻末の用語・人名解説に略歴を載せている他、口絵写真においても可能な限り当時の写真を載せた。いずれも、当時の山岸会や「ヤマギシズム生活実践場」に相当の影響力を持っていた人々である。
なお、この第五巻では、「理念研」第一回〜第四回の記録以外に、それに先立って持たれた、ヤマギシズム特講打合せ」、「明田恵二氏との対談」及び、「七月一五日の談話」の三篇も収録した。これらの資料はこの「理念研」の持たれた背景を知るために興味深い資料である。
また、参考資料として『フルシチョフ首相及びソ連の友へ』、『第一回理念研への呼びかけ』、『第二回理念研への呼びかけ』、『第八八回特講のお知らせ』、『内閣総理大臣
池田隼人殿―特講への招待状』を収録した他、研鑽会の筆記録を一貫して担当した奥村通哉へのインタビューを収めた。背景を知る資料として貴重なものであり、併せて読んでいただきたい。
二〇〇六年五月
山岸巳代蔵全集 刊行委員会
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